アオゲラ
本州に広く分布し、軽井沢でも見かけるキツツキの仲間。落葉広葉樹林、カラマツ林などに住み、サクラ、ナラ、クリなどの生木に穴を掘って巣を作る。青というより、どちらかというと緑っぽい色。(キツツキ科/留鳥) ⇒ 
野鳥

アカゲラ
軽井沢にも生息する野鳥で、種々の林に住み、アカマツ、カエデ、クリなどに穴を掘って巣をつくり、木の幹に穴を掘り虫を採る。キョッ、キョッと鳴き、アオゲラと同様に古幹を打って音を出す。他の鳥のように繁殖期のさえずりをもたないので、音を出すとのこと。(キツツキ科/留鳥) ⇒ 
野鳥

赤滝(血の滝)
写真
石尊山へ向かう途中にある、赤褐色の水が流れ落ちる高さ約9mの滝。変色している理由は、鉄分を多く含んだ水が空気に触れて酸化するため。別名血の滝とも呼ばれている。滝の横には洞窟があり、二体の不動明王が祀られている。流れる川は濁川と呼ばれ源流付近には血の池もある。

アカハラ
4月中下旬に本州中部以南から渡来するツグミ科の夏鳥。軽井沢には多い鳥で、芝生やコケなどに巣食う虫を採るために群れてエサをあさる。各種の明るい林に住み、雄は木の高いところでキョロン、キョロリン、キ、リリーと明るい声で繰り返しさえずる。平成15年8月1日に、町制施行80周年を記念して軽井沢町の鳥に制定された。 ⇒ 
野鳥

秋フットサルin軽井沢 紅葉カップ
例年10月中旬の土曜日、日曜日に軽井沢町社会体育館、勤労者体育センターにおいて開催されている、フットサルin軽井沢実行委員会が主催のフットサル大会。エンジョイ、ミックス、ミドル、オープンの各クラスに分かれている。出場は予約制で参加料が必要。締切があるので要問合せ。電話:0267(45)6074(ロッジゆうげん荘、フットサルin軽井沢係)。

朱楽菅江(あけらかんこう)狂歌碑
写真
宝性寺境内に建てられている碑で、朱楽菅江が沓掛滞在の時に作ったと思われる狂歌「こヽもまた 月の雪国雪国と はてなき空を わたる厂かね」 が刻まれている。朱楽菅江(1740-1800)は天明調の狂歌師で、江戸出身の幕臣。本名は山崎景貫。唐衣橘洲、四方赤良とともに狂歌の三大家といわれ、脱俗的な風格を特色とする「万載狂歌集」等、多くの著書がある。江戸人士には大変人気があったとのこと。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

浅間大橋
写真
JR長野新幹線の側道で、中軽井沢と南原の中間付近を流れる湯川に架かる長さ100m強の斜張橋。1997(平成9)年3月に竣工したもので、平成11年度の第4回佐久地域景観賞を受賞している。 ⇒ 

浅間火山博物館
浅間山の構造や成り立ち、自然を紹介する博物館。群馬県の
鬼押出し浅間園内にあり、1967(昭和42)年に開設され、1993年に新設リニューアルオープンした。地底マジカルホール、自然展示室、地底探査船、地学展示室、ロストワールド等の展示部門があり、観測コーナーでは火口監視カメラによる現在の火口の様子を見ることもできる。レストランとショップが併設されており、鬼押出し浅間園には浅間記念館や自然歩道が整備されている。当施設の設置運営管理は長野原町が行っている。冬期閉館。群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原1053-26、電話:0279(86)3000。 ⇒ 記念館・資料館・博物館・美術館・文庫

アサマキスゲ(浅間黄菅)
別名、ユウスゲ(夕菅)。日中に咲くニッコウキスゲに似ているが、花の色が淡く、夕方に咲いて翌朝には萎んでしまう一日花。ユリ科、ワスレグサ属、多年草、草丈1〜1.5m。自然のものは大分少なくなったが、両陛下と
軽井沢町植物園により、軽井沢町内ではあちこちで見られる。 ⇒ 野草・花・樹木

浅間三宿
浅間山の麓にある中山道軽井沢宿沓掛宿追分宿は「浅間三宿」と呼ばれていた。木曽路名所図会には「三宿は、浅間嶽の腰にて地形いよいよ高し。此三駅の間南北半里ばかり、東西三里が程、たいらかなる広野也。寒き事甚しくて五穀生せず。只稗、蕎麦のみ多し。又果の樹もなし。」とその環境の厳しさが記されている。浅間根腰の三宿とも。

あさま山荘事件
1972(昭和47)年2月19日、群馬県下の山岳アジトにおいて凄惨な大量リンチ殺人を犯した連合赤軍の幹部ら3名と少年2名は、移動中に警察に発見されて、銃撃戦の末、南軽井沢にあった河合楽器の保養施設「あさま山荘」に立て籠もり、管理人の妻を人質にし、包囲する警察の部隊に銃撃を繰り返すという、我が国犯罪史上まれに見る凶悪な事件を引き起こした。2月28日に人質が無事救出され、犯人全員が逮捕されたが、立て籠もり中と逮捕の際の犯人側による銃撃で、民間人1人が犠牲になり、警察側には2名の警察官が殉職した他、多数の重軽傷者が出てしまった。このような事件が再び起こることがないよう記念した
治安の礎が南軽井沢地区に建立されている。関連書籍に「連合赤軍『あさま山荘』事件」「連合赤軍『あさま山荘事件』の真実」など。

浅間サンライン(浅間山麓広域農道)
追分の国道18号浅間サンライン入口交差点と上田市住吉の国道144号古里交差点までの約27kmを結ぶ2車線の広域農道。軽井沢町内は追分、三ツ石を通っている。小諸市、東御市の市街地よりも浅間山よりの高い位置を走っているので、特に上り線は景色が好い。途中、長野県道130号菱野筒井線、長野県道・群馬県道94号東御嬬恋線、長野県道81号丸子東部インター線、長野県道4号真田東部線等と交わる。冬季間は降雪による事故等に注意が必要。1973(昭和48)年に着工し、1993(平成5)年に全区間が共用された。

浅間山麓
狭義には
浅間山の麓一帯を指すが、広義には浅間山を囲む長野県軽井沢町、御代田町、小諸市、東御市、上田市、群馬県嬬恋村、長野原町の大部分または一部を指し、広域的に連携した事業推進もしている。

浅間山麓広域農道 ⇒ 
浅間サンライン

浅間神社
写真
浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神が祀られている。1869(明治2)年5月より浅間山の鳴動が特に激しくなったので、鎮静祈願のため同年9月、明治天皇の勅祭が行なわれた社として知られている。本殿は流造で、海老虹梁、宝珠の彫りが素晴らしく、木鼻の出張も応永(1394〜1427年)様式の室町時代初期の様相をよく残している。懸魚もさがりに六葉が付いていて室町時代のもの。軽井沢町内最古の木造建築物。境内には追分節発祥の地碑芭蕉句碑。遊具もあり、追分公園を兼ねている。すぐ近くに軽井沢町追分宿郷土館。追分宿内東寄り。しなの追分馬子唄道中の会場にもなる。 ⇒ 神社

浅間根腰の三宿
東海道の箱根と並び天下一の難所として知られた碓氷峠をひかえ、更に大笹街道、北国街道との分岐点を持つ軽井沢には、浅間根腰の三宿(軽井沢・沓掛・追分)が形成され、その繁栄振りは今に語り伝えられている。しかし、江戸幕府の時代が絶え、明治の時代になると、街道を往来する旅人も少なくなり、かつて隆盛を極めた宿場も寂しくなった。更に明治17年碓氷新道(現在の国道18号線)の開通により中山道沿いの宿場町はその使命を終えることになった。
浅間三宿とも。

アサマモンキチョウ(ミヤマモンキ)
1887年に
浅間山(湯の平)で発見された日本最初の高山蝶。オスは黄色、メスは白色で大きさは約5cm。前羽の外側には約1cmの黒い帯、後羽には三日月形の黒い帯がある。羽の縁に赤桃色の細線がある。標高1,600mを越える浅間山麓で観測される。 →

浅間山
写真
長野県軽井沢町及び御代田町並びに群馬県嬬恋村にまたがり雄大な裾野を広げる日本を代表する活火山で、標高は2,568m。小浅間山離山(1,256m)、石尊山(1,668m)を従えた三重式成層活火山で、周囲の黒斑山、剣ヶ峰、蛇骨岳などは最も古い第1外輪山。前掛山は第2外輪山にあたる。浅間山には噴火の記録が数多くあるが、中でも1783(天明3)年の噴火では火砕流等が発生し、群馬県側で千名を越える人々が犠牲になった。最近では2004(平成16)年に小規模な噴火を繰り返し、軽井沢町内でも降灰が観測された。現在は登山規制が敷かれているので、山頂へは上れない。周辺への登山でも入山前には長野県の火山情報などを確認し、緊急時には直ちに下山する必要がある。南麓の追分地区には軽井沢測候所があり、24時間体制で火山観測をしている。 ⇒ 

浅間を望む佐久平の道 ⇒ 
中部北陸自然歩道(浅間を望む佐久平の道)

愛宕山
写真
愛宕山は、カラマツ並木が美しい三笠通りの東側にある山で、標高は1,174m。麓は古くから別荘地として開発されている。山頂及び山頂付近には、愛宕神社、三笠成田山神社、三笠神社の各社が建てられ、その近くには鳥井や狛犬、石灯籠などが設けられている。更に、琴平宮、古峰神社、浅間神社、天照皇大神宮の各石祠も見られることから、昔から信仰の山であったことが窺える。愛宕山という名の山と、愛宕神社は全国に多数あるが、その殆どは京都の愛宕山とその山頂の火伏・防火に霊験のある愛宕神社に由来するとのこと。山頂のすぐ下の南面と北面には玄武岩の柱状節理が見られ、その形状からオルガンロックと名付けられている。旧軽井沢の神宮寺付近から途中石段の続く愛宕神社参道を経由して登れば40分程で山頂に着く。三笠方面からの車道が山頂間近まで登っているが、急坂で未舗装の部分や狭い箇所がある。周囲は別荘地なので歩いて登るのがよい。 ⇒ 

アドエイド
株式会社アドエイド。1972(昭和47)年に創業された広告デザイン制作会社。主な事業はメディア事業とセールスプロモーション事業。メディア事業として雑誌「軽井沢ヴィネット」、情報誌「軽井沢新聞」の発行の他「軽井沢ウェブ」等の運営をしている。セールスプロモーション事業として新聞、雑誌広告の企画、デザイン、印刷等を手掛けている。長野県軽井沢町長倉2380-27、電話:0267(46)0055。

アプト式ラックレール
写真
スイス人カール・ロマン・アプト(Carl Roman Abt)により発明されたラック式鉄道。鋸の歯状をしたラックレールを普通のレールの中央に敷き、機関車の下に取り付けたピニオンギア(歯車)と噛み合わせることにより、駆動力を伝達する方式。旧信越線では1893(明治26)年4月の横川駅・軽井沢駅間の開通に合わせて3本のラックレールを少しすこしずつずらしながら敷くことにして採用された。横川駅・軽井沢駅間は標高差552.5m、最大66.7/1000の急勾配であった。積載量と速度の隘路になったこの方式も、強力で重い電気機関車を導入することにより1963(昭和38)年に廃止された。それ以降不要となったったラックレールは周辺地域の側溝の蓋などに活用されていたが、最近は見かけられない。

有島武郎
1878(明治11)年、東京小石川生まれ。幼い頃はアメリカ人家庭やミッションスクールで学び、西欧の自由な雰囲気の影響を受けた。学習院中等科を卒業の後、北海道で新渡戸稲造の家に寄宿しながら札幌農学校で学習した。1903年からの1907年にかけてアメリカへ留学し、ゲーテやトルストイなどの文学に親しみ、社会主義思想にも触れた。帰国後は母校の英語講師をしていたが1910年には志賀直哉、武者小路実篤らと「白樺」の創刊に参加し、文学にその情熱を傾けるようになった。3人の子供がいたが、1916年に妻と父を相次いで亡くしたことが転機ともなり、翌年発表した評論「惜しみなく愛は奪う」や小説「カインの末裔」により、作家としての名声を得た。その後は不振となり、1923年、人妻で記者の波多野秋子と軽井沢で心中を遂げた。代表作は先に揚げたほか、「小さき者へ」、「或る女」。洋画家の有島生馬と作家の里美クは弟。

有島武郎終焉地碑
写真
有島生馬の筆により「大いなる可能性 エラン・ヴィダル 社会の心臓 そういう君は 死んじゃった! 運命の奴め 凄い事を しやがったな!」と彫られている。エラン・ヴィダルとは生命の飛躍のこと。吹田順助による「混沌の沸乱―有島武郎の霊に捧げる―」の中の一連。1954(昭和29)年に有島武郎の終焉の地、旧三笠ホテル近くの浄月庵跡に建てられた。浄月庵は有島武郎の別荘で、1923(大正12)年、婦人記者の波多野秋子と共に自ら命を絶った。傍らには、チルダへの友情の碑も建っている。山の麓の別荘に囲まれたところにあり、とても捜しづらい。浄月庵は、軽井沢タリアセン内に移築活用されている。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

有島武郎別荘 ⇒ 
浄月庵

「アリスの騎士(ナイト)」
軽井沢町在住の推理小説作家、
内田康夫による軽井沢を舞台にした短編小説。「軽井沢の霧の中で」に収録されている。

アレキサンダー・クロフト・ショー(Alexander.Croft.Shaw)
A.C.ショーは1846年、カナダのトロントに生まれ、トロント大学在学中に聖公会聖職を志た。そして1869年に執事、1870年に司祭となり、同年、イギリスに渡り、ロンドンの教会に勤務するようになった。当時英国聖公会は、日本にキリスト教を広めたいと考えていたが、ショーは、その宣教師に志願し、1873(明治6)年、横浜に到着し、宣教師としての第一歩を踏み出した。様々な困難を経て布教活動をしていた折、1886(明治19)年に東京の夏の猛暑を避けて軽井沢を通りかかったショーは、軽井沢の涼しく爽やかな気候と自然に感激し、ひと夏を軽井沢で過ごすことになり、それがきっかけで、多くの外国人らが訪れるようになった。ショーは1888(明治21)年に、旧軽井沢の
大塚山(だいづかやま)に簡素な別荘を建て、友人の宣教師たちにも「軽井沢は保健と勉学に適している」とすすめた。東京のうだるような暑さに耐え切れない欧米人にとって軽井沢は格好の避暑地となった。1902(明治35)年、東京で逝去したショーは、青山墓地に夫人とともに葬られている。56才であった。 ⇒ 日本聖公会ショー記念礼拝堂

アンサンブル軽井沢
軽井沢町及びその周辺に在住する演奏家が集まり2005年に結成されたクラシック音楽の団体。プロ・アマの垣根を越え、軽井沢で音楽と向き合う幸福、を合言葉にしている。これまでに何回かコンサートが開催され、そのひたむきで温かい音楽性が注目されている。

安政遠足(とおあし)
毎年5月の第2日曜日に開催されている安中市のマラソン大会。江戸時代の安政2(1855)年に当時の安中藩主板倉勝明(かつあきら)公が藩士の鍛錬のために中山道を徒歩競走させたことに由来する。スタートは安中城址(安中文化センター)だが、ゴールは碓氷関所跡付近のくつろぎの里(約20q)と
碓氷峠(約30q)の2つのコースがある。特に安中城址と碓氷峠の間は標高差が1,000m以上あり、厳しいコースになっている。仮装した参加者が多く、侍マラソンとも呼ばれている。
 ⇒ 佐久広域事典  ⇒ 佐久穂事典  ⇒ 立科事典  ⇒ 東御事典