石川功一
軽井沢の1000種類近くに及ぶ草花のスケッチ3000余枚と百数十点の油彩画作品を残した画家。1937(昭和12)年3月伊賀市生まれ、満70歳で2007年7月永眠。はじめは漫画家、人物画家であったが、1981年に軽井沢を訪れてから草花を描き始めた。その作品は
小さな美術館軽井沢草花館に収蔵展示されている。

石の教会 内村鑑三記念堂
アメリカ人建築家ケンドリック・ケロッグが設計した教会。石とガラスのアーチが折り重なる特徴的な建物は、明治、大正期のキリスト教者、内村鑑三の思想を表現し、顕彰することを目的として建てられた。堂内は石、光、緑、水、木と自然の5大要素で出来ている。挙式時以外は見学可能。地下は
内村鑑三資料展示室になっている。軽井沢町長倉(星野)・0267-45-2288。 ⇒ 教会

市村記念館
この建物は、大正時代に洋風住宅建築会社「あめりか屋」によって建てられたもので、大正15年に近衛文麿が別荘として野沢源次郎から購入した。その後、昭和7年に政治学者として近衛と親交があり、南原を別荘地として開発することに尽力した市村今朝蔵・きよじ夫妻の別荘となり、昭和8年に南原に移築された。平成9年には旧姓市村信江、令子姉妹が中心となり、母・きよじの逝去後、雨宮御殿内雨宮池の東端に移築して軽井沢町に寄贈された。和洋折衷の建築、豪華な調度品などがに特徴があり、市村今朝蔵とその夫人で名誉町民となった市村きよじの資料をはじめ、落葉松の植林事業で成功した雨宮敬次郎、近衛文麿の資料が展示され、平成11年より歴史民俗資料館分室として公開されている。長野県軽井沢町長倉2112-21、TEL:0267-46-6103。 ⇒ 
記念館・資料館・博物館・美術館・文庫
  
一茶句碑
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「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」 追分の諏訪神社境内に、有志により平成6年に建立された。軽井沢出身の書家である稲垣黄鶴の筆で刻まれている。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

稲垣黄鶴
1903(明治36)年11月3日、追分の土屋三六(三浦屋)の娘として生まれ 「はま」と名付けられ、翌年には上田藩主松平忠正候の祐筆を勤めていた湯浅蛭渓を祖父として養女となった。幼い頃より書を学び、岩田鶴皐に師事して雅号 「黄鶴」 を戴いた。東京女子師範学校を卒業後、北京の 「日本高等女学校」 教師に就き、戦中、戦後の混乱期には辛酸を舐めたが、日中友好や戦災引揚孤児支援のために献身した。女流書道協会理事や財団法人日本書道院副会長等を歴任し書道発展のために尽力した。
追分宿郷土館竣工に際しては看板の揮毫と作品の供与、追分公民館落成に際しては看板の揮毫をした。平成18年11月逝去、享年103歳。

稲垣黄鶴句碑と筆塚
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追分の泉洞寺境内に句碑と筆塚が並んで建っている。句碑は1962(昭和37)年に建てられ、稲垣黄鶴の句 「浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花」 が彫られている。筆塚は昭和46年に建てられ、思い出の多い多数の筆を納められている。筆塚は武石村(現上田市)の美ヶ原台地にもあるとのこと。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

いぼ地蔵
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中軽井沢は軽井沢町商工会館の裏手にある、台座も含めた高さ2m程の地蔵。地蔵の足元に積まれている平らな小石で患部をこするといぼが消えると言い伝えられている。いぼが消えたら同じような小石を2個お地蔵様に返すのだそうだ。小さな地蔵を6体従えている。建立年代等は不明。だんだんかしがって倒れたため、2010年に真っ直ぐに立てられ、周囲はコンクリートで固められた。

入山峠
国道18号碓氷バイパスの峠、標高1038m、群馬県側は安中市。多数の石製祭器が出土していることなどから、古代の東山道はここを通り、当時の碓氷坂は入山峠を指してると考えられている。
碓氷峠を通る中山道が出来てからも、物資の輸送などに使われた。

入山道石造物群
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軽井沢バイパスの鳥井原東交差点から鳥井原方向に200mほど向かうと、鳥井原公民館手前から西に向う道路下に道祖神のような石碑が12基並んでいる。この付近はかつての入山道が湯川を渡る場所で、江戸時代以前より往来があったとのこと。道中の安全を祈って奉納された石造物は、道路の改修に伴い、並べなおされた。

インテック
株式会社インテック。軽井沢町内において浄化槽の維持管理及び設置工事、また上下水道設備工事をしている企業。環境に負荷を掛けないことなどが企業理念。有限会社軽井沢衛生企業、有限会社中部設備とともにKESグループを形成している。軽井沢町長倉957-2、TEL:0267-44-3872。
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