追分
中山道と北国街道の分岐点として栄えた宿場町。昔の面影を残す街並みが残り、その素朴な風情が堀辰雄や立原道造らに愛された。宿場内を通る旧中山道と平行して国道18号、しなの鉄道、1000m林道がほぼ東西に走っている。追分宿郷土館堀辰雄文学記念館中山道69次資料館等により、かつての賑わい振りが懐古できる。浅間神社諏訪神社泉洞寺枡形の茶屋分去れ一里塚芭蕉句碑奥村さき歌碑一茶句碑稲垣黄鶴句碑と筆塚等、貴重な文化財、史跡が数多く存する。

追分きのこ祭り
写真
毎年10月中旬頃、きのこ狩りシーズンの日曜日に追分公民館で開催される。内容は朝市、きのこ展示会、きのこ汁賞味会きのこ鑑定会他。追分観光産業振興会主催。

追分公園
写真
追分浅間神社境内にある公園。鉄棒、すべり台。 ⇒ 公園

追分公民館
写真
追分宿内道路南側に面して建設されている。看板の文字は稲垣黄鶴により揮毫されたもの。駐車場横の塀には、立原道造詩と像のレリーフが嵌め込まれている。1958(昭和33)年完成。長野県軽井沢町追分523、電話0267(46)2929。

追分コロニー
旧中山道・追分宿にあるエコロジーとエコノミーに関する本を取り扱う古書店。古書の販売は勿論、各種展示会、古本市、骨董市なども開催している。軽井沢町追分612、電話0167(46)8088。

「追分殺人事件」
軽井沢在住の推理小説作家
内田康夫による追分が事件の発端になった推理小説。1988(昭和63)年双葉社より刊。

追分宿
浅間三宿の一つで、江戸時代に入り中山道の大改修が行われ、参勤交代が実施されたことにより著しい発展を遂げた。北国街道との分岐宿として人馬の往来が激しく、貞享年間の記録によると旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒、その他5軒を数える宿場であった。元禄の時代には戸数152、人口892人であったという。本陣1、脇本陣2、問屋1が置かれ、追分節で 「追分1町2町3町4町5町ある宿で」と唄われているように、宿場町としての形態はよく整備されていたとのこと。遊女や飯盛女の数は最盛期には270人もいて旅人相手の生活をしていたと言われており、活気溢れる宿場町だったことが窺える。

追分宿郷土館 ⇒ 
軽井沢町追分宿郷土館

追分宿郷土館馬頭観世音碑
写真
追分宿で問屋を営んでいた人々により役馬の安全と供養を祈願し1974(寛政6年)6月に建立された。高さが約3mあり、軽井沢の文字碑としては規模が大きい。明治15年の北陸御巡幸の折、道路改修により破棄されたが、追分宿郷土館開館に伴い前庭に改修展示された。「地所寄付・小川要蔵世話人とし、土屋新九郎、関卯右衛門、土屋源五右衛門、内堀九郎次」 の銘が彫られている。

追分宿高札場
写真
1983(昭和58)年に古文書を元に復元されたもので、追分宿のほぼ中央浅間山寄りにある。1633(寛永10)年の古文書によると、高さ3尺、広さ1.5坪の芝土手を築き、柱は5寸角、高さ6尺のきぼであったという。法度や掟書きなど記し、高く掲げた板を高札というが、その高札を掲げた場所を高札場といい、追分宿の高札場はかつての問屋前の路中央にあったという。掲示してある高札は複製品で、現物は軽井沢町追分宿郷土館に保管展示されている。

追分宿の分去れ ⇒ 
分去れ

追分宿本陣門(裏門)
写真
江戸時代に栄えた追分宿は、1893(明治26)年に信越線が全線開通するとともに、宿場としての機能を失い、この追分宿本陣裏門も御代田町塩野の内堀家表門として移築され、軽井沢町の歴史遺産として大切に保存されていた。2005(平成17)年になり内堀家より軽井沢町に寄贈され現在の場所に移築され、堀辰雄文学記念館の門として追分宿の往時を伝えている。材料は全て欅で、一間冠木付門、切妻造(桟瓦葺)、妻蟇股、二間繁垂木、背面控柱。軽井沢町追分宿郷土館に展示保存されている棟札には天保二年に越後国の大工、片桐伴が棟梁としてこの門を建てた旨の文言が見える。

追分諏訪神社 ⇒ 
諏訪神社(追分)

追分第二運動場テニスコート
1979(昭和54)年に完成したテニスコート。クレーコート7面のほか更衣室(シャワー付き)有り。利用できる期間は4月下旬から11月初旬で、時間は9時から17時まで。
国道18号浅間サンライン入口交差点を右折し300m程の交差点を更に右折して300m程進んだところの左側。軽井沢町追分1550-4、電話0267(45)8456。

追分中央公園
追分諏訪神社境内にある児童公園。運梯、鉄棒、ブランコ、スプリング遊具等。 ⇒ 公園

追分の一里塚
写真
一里塚は、徳川家康の命(慶長九年)により江戸日本橋を起点に主要街道に一里毎に築造された塚で、旅人往来の道標としての役割を果たした。中山道の塚は大部分が崩壊してしまったが、この一里塚はよくその原型を保って当時を偲ぶことができる。現在は国道18号を挟んで、道の両側に残っている。軽井沢町指定文化財

追分節
江戸時代、中山道を利用して江戸と京都を往復した旅人は、碓氷の難所では馬を利用し、その馬子達は、仕事唄として馬子唄を唄っていた。馬子唄は軽井沢宿、沓掛宿、追分宿の飯盛女の三味線等により洗練され、追分節として成立した。馬子唄が三味線を借りて座敷歌になったことにより、諸国に広く知れ渡り、現在は全国各地で、その地の追分節として唄われている。
軽井沢町追分宿郷土館の館内では追分節が流されている。

追分節発祥の地碑
写真
石碑建立実行委員会により1995(平成7)年に追分の浅間神社境内に建てられたもの。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

追分馬子唄
写真
中山道追分宿に伝わる馬子唄。
 一、追分枡形の茶屋でヨー ほろと泣いたが忘らりょかー
 二、浅間山さん 何故焼けしゃんすヨー すそに三宿もちながら
 三、小諸出て見りゃ 浅間の山にヨー 今朝も煙が三筋立つ
 四、碓氷峠の権現様はヨー 主のためには守り神
 五、西は追分東は関所 関所こゆれば旅の空
 六、浅間ねごしの焼野の中でヨー アヤメ咲くとはしおらしや

追分枡形の茶屋 ⇒ 
枡形の茶屋

大賀通り
矢ケ崎公園東側ゲートから軽井沢大賀ホール前を通り新渡戸通りに突き当たるまで、約1kmの道が「大賀通り」。この場所に軽井沢初のコンサート専用ホール「軽井沢大賀ホール」が誕生したのは2005年4月のこと。軽井沢名誉町民でもある寄贈者のソニー元名誉会長・大賀典雄氏の名前が刻まれ、自慢の音響設備を施した五角形の建物は、設計面からも大きな注目を浴びた。年間を通じて開催されるコンサートの折には、美しい調べへの期待を抱き、多くの人たちがこの道を会場へと急ぐ。

甌穴
写真
甌穴(おうけつ)とは河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴のこと。ポットホール(pot hole)、またはかめ穴ともいう。河底や河岸の表面が硬い場合、表面に割れ目などの弱い部分があるとそこが水流による浸蝕のためにくぼみとなる。このくぼみの中に礫が入ると渦流によってその礫が回転し丸みを帯びた円形の穴に拡大する。その後川底が侵食の影響で下がり、甌穴のできた場所は水面より高くなる。その結果、甌穴が地表に見られるようになる。穴の直径、深さとも数cmのものから数mのものまでその姿はさまざまである。底に磨耗した小石が残っているものもある。釜が淵橋は油井側の上流部分から河原に下りられるようになっているが、ここを降りるとすぐに甌穴が見つかる。これが写真の甌穴だが、ここから下流方向に2km程の間、両岸に大小およそ50個の甌穴が見られる。小さなもので直径20cm、大きなものは直径1mほど。この甌穴群は軽井沢町指定文化財に指定されている。足元が悪いので、見学には注意が必要。

大賀ホール ⇒ 
軽井沢大賀ホール

大日向開拓記念館
写真
大日向公民館に併設された、大日向開拓地に関する記念館。満州大日向開拓団は1947(昭和22)年に、借宿地籍の国有林に入植した。 → 記念館・資料館・博物館・美術館・文庫

大日向公民館
写真
1964(昭和39)年落成。大日向開拓記念館が併設され、庭には御巡幸記念碑開拓ノ礎が設置されており、皇太子明人殿下賜る浅間キスゲと浅間アヤメも植えられている。軽井沢町長倉5688。

大日向神社
写真
大日向の北方にある小さな社。鳥居を潜り、山の尾根を100m程上ると見えてくる。社上屋と鳥居は1976(昭和51)年に建立された。 ⇒ 神社

オオルリ
軽井沢でも見られる、4月下旬ごろ初鳴きを聞かせてくれる夏鳥で、川沿いの広葉樹林の頂上付近に留まっている。響き渡る声量は驚くべきもので、樹上で鳴きながら昆虫を舞い上がって捕らえるとまた元の枝にもどって、ピールリポイピーリーリーなどとさえずる。(ヒタキ科/夏鳥)

おおやまざくらの広場
写真
軽井沢駅北口の西側階段西脇にある一寸した広場。インターロッキングが敷き詰められ、ベンチと軽井沢を代表する風景のレリーフが設置されている。

大山祇神社
写真
鳥井原地区にある神社。境内横には鳥井原児童遊園がある。

沖野岩三郎歌碑
「物書きて 倦みぬる時は 口笛に 煩白の うたをまねて みる哉」 沖野岩三郎はキリスト教教師として伝道布教のかたわら創作に志し、小説や童話などの分野に卓越した才能を発揮した。1934(大正9)年頃から星野地区へ来遊し、その後千ヶ滝に別荘を求め、晩年までこの地で過ごした。その頃の歌を自然石に自らの達筆で刻んだ碑が1954(昭和29)年、ホテル・ニューホシノ(現在のホテルブレストンコート)の庭に建立された。 ⇒ 
文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

奥村さき歌碑
写真
1965(昭和40)年に建立された歌碑で、「朝やけの 山にむかひて いうことなし さばさばとわが身 ひとりのあゆみ」 と自然石に自筆の文字が刻まれている。奥村さきは尾上紫舟(おのえさいしゅう)門下の歌人で、毎夏軽井沢に滞在し、多くの歌を残した。歌碑は追分宿と信濃追分駅を結ぶ道路から少し西側へ入ったところにあり、少し探しづらい。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

遠近宮(おちこちぐう)【
写真
借宿地区にある神社で、境内にシナノキが多いのが特徴になっている。境内は借宿公園と借宿児童遊園を兼ねている。国道18号を軽井沢方面から借宿東交差点または借宿交差点を左折。社叢は軽井沢町指定文化財。軽井沢町長倉4751。 ⇒ 神社

鬼押し出し
地籍は群馬県嬬恋村。1783年8月5日(天明3年7月8日)の浅間山の大噴火によって噴出された長さ6km幅3kmの溶岩が様々な形に凝固している地帯で、遊歩道等が整備されている。1951(昭和26)年に開園した
鬼押出し園(0279-86-4141)と1963(昭和38)年開園の長野原町営鬼押出し浅間園(0267-86-3000)とが隣接している。浅間園内には浅間火山博物館があり、鬼押し出し園内には東京上野の寛永寺の別院である浅間山観音堂が設置されている。軽井沢の峰の茶屋から鬼押ハイウェー経由で10分ほど。

鬼押出し浅間園
北軽井沢にある1963年に設置された長野原町営の公園。園内には
浅間火山博物館、浅間記念館、キャンプ場等が設置されており、季節に応じた散策ができる。群馬県嬬恋村(長野原町北軽井沢)、電話0279(86)3000。

鬼押出し園
群馬県嬬恋村にある1951年に設置された公園。園内には東京上野の寛永寺の別院である浅間山観音堂が設置されている。群馬県嬬恋村鎌原1053、電話0279(86)4141。

鬼押ハイウェー
写真
軽井沢町から群馬県嬬恋村鎌原に至る一般自動車道で、プリンスホテルが管理運営を行っている有料道路。軽井沢から鬼押し出し、万座温泉、草津白根山へと、上信越高原国立公園を縦走する全長約60kmの浅間〜白根火山ルート(万座ハイウェー・鬼押ハイウェーの二道路から成る)の内、峰の茶屋(軽井沢町)〜鬼押し出し〜三原(嬬恋村)間17.0kmの事を指す。峰の茶屋料金所から鬼押出しの区間(軽井沢区間)と、鬼押出しから三原料金所の区間(鎌原区間)でそれぞれ別に通行料金を徴収する。道路はよく整備されており、眺望もよく、浅間山麓の快適なドライブコースとなっている。

お歯黒池
写真
濁川の水源、血の池周辺湧水群のひとつである第一源泉が湧き出ている池。湧出口付近の水は透明だが、鉄分が多いため、池全体の水は赤褐色をしている。すぐ近くには血の池と血の池弁財天の石祠、少し離れて第二源泉がある。

思婦石(おもふいし)【
写真
別名「日本武尊をしのぶ歌碑」。「ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 いまも恋しき 吾妻路のそら」と彫られている。群馬県室田の国学者、関橋守の作で、日本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われている。1857(安政4)年建立。旧碓氷峠熊野皇大神社前を過ぎ坂本宿方面に徒歩3分程、途中から未舗装。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

オルガンロック
写真
愛宕山山頂直下南面の愛宕神社には、旧軽井沢の神宮寺付近からだと徒歩でおよそ40分もあれば着くが、着いた途端に社の裏手から東にかけて広がる奇岩に驚かされる。この奇岩の正体は玄武岩で、10m程の高さの柱状節理がおよそ20mに亘って露出している。この岩の様子をオルガンの鍵盤に見立てたものか、あるいはパイプオルガンのパイプに見立てたものかは定かでないが、別荘に住む人たちによってオルガンロック(岩)と名づけられた。なお、この岩を風琴(オルガンの和名)岩と表記している場合やアコーデオンロックと表現している場合も散見される。また、木々の葉が落ちる冬季間は、軽井沢駅からもこの岩を見ることができる。オルガンロックを左手に見て、ほぼ等高線に沿ったふみ跡を5分位歩くと、琴平宮の石祠があるちょっとした広場に出るが、こちらにも規模は劣るが柱状節理が見られる。柱状節理の様子は、こちらの方が間近に観察することができる。

温泉
 オナーズヒル軽井沢クラブハウス・0267-45-0189
 小瀬温泉軽井沢パークホテル・0267-42-3611
    外来入浴要問合せ
 小瀬温泉ホテル・0267-42-3000
    外来入浴不可
 塩壺温泉ホテル・軽井沢町長倉2148-1・0267-45-5441
    弱アルカリ炭酸泉/効能は筋肉痛、関節痛、神経痛、婦人病更年期障害、痛風、気管支炎等
 千ヶ滝温泉・0267-46-1111
 星野温泉トンボの湯・0267-44-3580
 ゆうすげ温泉・軽井沢町長倉4404・0267-45-6117
    含土類石膏弱食塩泉、緩和低張性温泉/源泉温度39度/適応症は高血圧症、動脈硬化症等
 ラフォーレ倶楽部ホテル中軽井沢・0267-46-6611

女街道
中山道本庄宿で分かれて藤岡、富岡、下仁田を通り和美峠を越えて中山道の沓掛宿追分宿の間にある借宿に至る道。江戸時代後期には中山道の脇街道として賑わった。軽井沢では和美峠から南軽井沢を経て借宿までの道を女街道と呼ぶのが一般化している。名称の由来には、中山道の表街道に対する裏街道の意味で言われたという説、あるいは難儀な碓氷峠越えや詮議の厳しい碓氷関所のある中山道を避けた女性が大いに利用したからとの説がある。
 ⇒ 佐久広域事典  ⇒ 佐久穂事典  ⇒ 立科事典  ⇒ 東御事典