与謝野寛・晶子夫妻歌碑
1971(昭和46)年に建立された自筆の文字の歌碑。「一むらの しこ鳥のごと わかき人 明星の湯に あそぶ 初秋 寛 秋風に しろく なびけり 山ぐにの 浅間の王の いただきの 髪 晶子」と彫られている。与謝野夫妻は大正10年、星野温泉明星館に逗留して多くの歌を残したが、これらの歌はその時のもの。 → 
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吉田絃二郎夫妻句碑
「あき風の ふもとははやし 浅間山 (明枝女) 一人来て松下に佇めば 風寒く秋鳥独り木にあり 白雲依々山に漂ふ (吉田絃二郎)」 共に毎夏を過ごし、共に軽井沢を愛した無き夫人を偲んで、1938(昭和13)年、自らの手によって星野地区のこの地に碑を建てた。吉田夫妻は共に俳人で、共に句作し批評しあうなど、極めて仲のよい夫婦であったと言われている。 → 
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吉野太夫の墓
写真
追分宿泉洞寺付近から、国道18号と交わり南に向かう1本の道がある。この道は国道から350m程下ると二股に分かれ、左は茂沢、右は草越の方向へと向かう。この分岐点の少し手前左側に、浅間石で囲まれた狭い墓地があり、小さな墓石が集められている。墓石の数は9基で、南北に向かい合うように建てられている。北側を向き、道路から2番目の「春貞禪定尼」と彫られたものが吉野太夫の墓だと伝えられている。この辺りの坂は吉野坂と名付けられているが、太夫とは官許の遊女、又は芸妓の内、最高位にある者ということなので、坂の名前が先についていたのではないかと推測される。説明版には「吉野太夫の墓 追分宿母袋屋の 遊女吉野太夫が 勤皇の若い志士の ために幕府方の 情報を流して 斬首されたと 云われている 遊女の墓」と書かれている。墓石には「享保廿(?)卯天 三月十八日没」と書いてあるように読めるので「勤皇の志士」とは時代が100年程隔たっていることになるのだが・・・・・・。遊女の墓は泉洞寺にもある。
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