算額算額
嘉永6(1853)年、上原平左衛門道英が解き方を考え出し、お礼に奉納した。わが国の和算は、関孝和(1624〜1708年)によって初めて学問的に、確かなものとなった。東信地方に和算の種が蒔かれたのは、関孝和が活躍していた(元禄年間)頃である。関流はその後、小諸の関五大夫に受け継がれ、さらに、上田市から東信地方に伝えられ、普及した。算額は、自分の解いた数学の難問を広く一般に知らせたり、だれにも解けない問題を出題して、あえて他流に挑戦したりと、様々な目的をもって掲額した。神社仏閣へ奉納して自分の学問の進歩を感謝し、数学に大きく貢献した。この算額には、3つの幾何の問題とその解答、解法が記されており、江戸末期における当町の学問の進歩を知る上で貴重である[東御市教育委員会]。祢津の
大日堂内に掲げられている。

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