宝性寺写真
真言宗智山派長倉山寶性寺。本尊は大日如来。佐久八十八ヵ所第十五番札所。境内に朱楽菅江の狂歌碑。軽井沢町長倉2331-14、TEL:0267-45-6128。 ⇒ 

ボウリング場
 軽井沢プリンスボウル 軽井沢町軽井沢1178 0267-42-1133 30レーン

「北斎の娘」
軽井沢在住の作家
塩川治子による江戸時代の女絵師を描いた伝記小説。文中に浅間山や浅間三宿の描写がある。2001年邑書林より刊行。

星野リゾート
株式会社星野リゾート。中軽井沢の
湯川沿いにおいて1904(明治37)年に創業され、1914年(大正3年)には星野温泉旅館を開業した。星野地区の「ホテルブレストンコート」、「星のや軽井沢」、更に山梨県、福島県、北海道においてもリゾートホテルの運営をしている。また、日本各地において旅館再生事業をしている。2007年には、地球温暖化防止に貢献する取り組みが評価され、環境大臣賞を受賞した。

北国街道
追分宿分去れ中山道と分岐し、越後の高田あるいは出雲崎まで続く道。佐渡で採れた金を江戸まで運んだり、善光寺参りの人達が利用したり、また加賀藩が参勤交代に利用したりと、五街道に次ぐ重要な道であった。

発地
軽井沢町南部の地名。北から時計回りに長倉、群馬県安中市、群馬県下仁田町、佐久市香坂、茂沢に囲まれている。郵便番号は389-1113。浅間山荘事件顕彰碑(治安の礎)、軽井沢アイスパーク、軽井沢風越学園、軽井沢風越公園総合体育館、軽井沢72ゴルフ(北・南)コース、軽井沢発地市庭、軽井沢町塵芥処理場、軽井沢南保育園、軽井沢レイクガーデン、沢屋ジャムファクトリー、発地川、三井の森カントリー倶楽部、森のようちえん ぴっぴ。

発地市庭 ⇒ 軽井沢町農産物等直売施設軽井沢発地市庭

ホトトギス
毎春5月中旬には軽井沢に飛来する夏鳥で、ホトトギスが鳴くとすべての夏鳥が軽井沢に揃ったことになる。ウグイスに託卵することが多い。行動範囲が広く、一羽で浅間山麓を飛び回るので数は多くない。(カッコウ科/夏鳥)

堀辰雄
1904(明治37)年、東京・麹町生まれ。中学校時代の得意科目は数学で、文学にはあまり親しまなかったという。1921年、第一高等学校理科乙類に入学。同期には小林秀雄らがいた。堀辰雄の文学は1923年に室生犀星、芥川龍之介と出合ったことが出発点で、東京帝国大学文学部に入学した1925年には、芥川、その恋人の片山広子(歌人・松村みね子)、広子の娘の聡子(作家・宗瑛)、室生、荻原朔太郎らと軽井沢でひと夏を過ごした。その思い出が「聖家族」の題材ともなっている。1926年に同人誌「驢馬」を創刊し、1930年には「聖家族」により文壇デビューした。このころから胸の病が重くなり、軽井沢に療養することも多く、軽井沢を舞台にした作品も残した。1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院する。しかし、綾子はその冬に亡くなる。この体験が、堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となった。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受け、王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」のような作品や、「大和路・信濃路」(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、「菜穂子」(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよくみた。立原道造・中村真一郎・福永武彦たちが堀の門下のような存在として知られている。戦争末期からは病気も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、追分で闘病生活を送った。病気がちで、自分の可能性を充分にに発揮することができなかった作家といえる。主な作品は「美しい村(1933年)」、「風立ちぬ(1936-1937年)」、「かげろふの日記(1937年)」、「曠野(1941年)」等。1953年5月28日没。 ⇒ 
堀辰雄文学記念館

堀辰雄山荘
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堀辰雄が1941(昭和16)年の春に買い求め、4年続けて初夏から秋にかけて過ごした山荘。軽井沢でも古い建物の一つで、大正7、8年頃アメリカ人スミス氏の所有となったが、戦争の影響で帰国することになり、堀辰雄が譲り受けた。内部には暖炉と炭で焚く風呂があった。堀辰雄が追分に移ってからは、戦争中住む家を失ったドイツ人の女性が住んでいたこともあった。堀辰雄の没後は深沢省三・深沢紅子画伯夫妻も住んだ。現在は軽井沢タリアセン内の軽井沢高原文庫敷地内に移築保存されている。

堀辰雄の径(フーガの径)
万平通りの中程、森裏橋の袂を
ささやきの小径と分かれて南東方向に向かう小径。堀辰雄の小説 「美しい村」 から名付けられた。「小遁走曲」と副題が付けられたこの作品の中では、軽井沢の美しい自然とそれを取り巻く人々の生活が、バッハの「遁走曲(フーガ)」のように繰り広げられている。堀辰雄が住んだ1412山荘(現在は軽井沢高原文庫敷地内に移築)はこの道沿いにあり、小説中に登場するチェコスロバキア公使館の別荘は1412山荘の向かいにあった。

堀辰雄文学記念館
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軽井沢を愛した作家、堀辰雄に関する資料を展示・保管する文学資料館。1990(平成2)年に堀辰雄婦人、堀多恵氏より、夫人の旧宅、旧堀辰雄邸、書庫、蔵書、遺愛品等が軽井沢町に寄贈されたのを受け、関係資料を展示する閲覧室を設けた管理棟の建設と併せ、1993(平成5)年4月に開館した。夫人の旧宅は堀辰雄の生涯と文学を紹介した常設展示室になっており、他に、堀辰雄が晩年にすごした旧堀辰雄邸や、書庫、庭には堀辰雄文学碑がある。管理運営は軽井沢町。長野県軽井沢町追分662、0267-45-2050。 ⇒ 記念館・資料館・博物館・美術館・文庫

堀辰雄文学碑
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「春の大和に往って 馬酔木の花ざかりを見ようとして途中木曽路をまはって来たら思ひがけず雪がふってゐた 昭和18年4月13日 堀辰雄」 2001(平成13)年10月、堀辰雄文学記念館敷地内に建設された。昭和18年4月、堀辰雄は夫人とともに木曽路を通り大和路に旅したが、この旅が 「辛夷の花」 「浄瑠璃寺の春」 として結実した。碑文は夫妻が大和路へ向かう途中、木曽福島のつたや旅館の主人に請われて書いたもの。堀辰雄が遺した数少ない毛筆による自筆の文で、多恵夫人により選ばれた。碑の材質は白御影石で、堀辰雄が好みまた堀辰雄の文学基調となっている白を表し、基台の円柱は堀辰雄が文学において求め表現しようとしていたものを象徴しているという。 ⇒ 文学碑、歌碑、記念碑、記念像、碑

ホリデーウォークin軽井沢
例年10月20日前後の日曜日に開催されるウォーキング大会。約7kmの千ヶ滝ウォーキングコースと約12kmの千ヶ滝・野鳥の森ウォーキングコースとがある。主催は軽井沢紅葉まつり実行委員会と信濃毎日新聞社。定員、参加料、申込締切日があるので要問合せ。026-236-3366。

ぼんぼん坂随道 【
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軽井沢72ゴルフ方面の女街道と上発地徒を結ぶ道にあるトンネル。1987(昭和62)年3月竣工。
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